Yoshihisa yamaji biography of martin
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Yamaji, Yoshihisa, 1950-1988 - LC Linked Data Service.
山路芳久
山路 芳久(やまじ よしひさ、年(昭和25年)6月17日 - 年(昭和63年)12月19日)は、年代から年代にかけてヨーロッパの歌劇場で活躍した日本のテノール歌手、音楽教育者。
生涯
[編集]三重県津市に、警察官の四男(末子)として生まれる。中学生の頃より声楽を学び始め、三重県立津高等学校を経て年(昭和49年)東京芸術大学音楽学部に入学した。伊藤亘行、疋田生次郎に師事[1]。
年(昭和51年)同大学院を修了した後は二期会に所属した。翌年(昭和52年)にイタリア政府給費留学生[1]としてローマサンタ・チェチーリア国立アカデミアに進学。年(昭和53年)ミラノ・スカラ座研究所に入る[1]。マニヨーニ、ファヴァレット、ブラスキに師事[2]。イタリア各地の声楽コンクールでも優秀な成績を収めた。さらにスカラ座のオーディションに日本人男性として初めて合格し[1]、年(昭和54年)にロッシーニ『モーゼ』での端役ながらスカラ座にデビュー[1]している。
同年にはウィーン国立歌劇場の専属歌手[3][4]となり、ヴェルディ『椿姫』アルフレードやドニゼッティ『愛の妙薬』ネモリーノを歌った。世界の著名歌劇場で日本人テノール歌手が専属として主役を歌うのはこの山路が最初であり、日本声楽界にとっての快挙であった。
その後も山路は、上記レパートリーの他、ロッシーニ『セビリアの理髪師』アルマヴィーヴァ伯爵などリリコ・レッジェーロの諸役を中心にウィーンで活躍。年(昭和57年)からはミュンヘン国立歌劇場と専属契約[3]し、ヴォルフガング・ザヴァリッシュやカルロス・クライバーらの指揮のもと[5]に世界的な歌手として活躍し、将来を嘱望されていた。
日本にもたびたび帰国し、所属の二期会の公演やリサイタルなどでその美声を聞かせた。年(昭和61年)からは二期会を退団、フリーとして藤原歌劇団の公演にも参加した。特に例年、年末12月から1月にかけては日本に戻り、12月はベートーヴェンの『第九』を各都市で歌い、1月に『NHKニューイヤーオペラコンサート』に出演の後ヨーロッパ